いつかの思考のための箱

Choose what you love and stick with it.

やっぱり組織は難しい

昔からチームスポーツが苦手だ。

 

日本の高校時代にアメフト部に入ったのが人生で初のチームスポーツだった。

 

完全分業制のアメフトでも、僕にとっては苦痛を伴った。

 

レンタイセキニンとかシュウダンコウドウとか。

 

誰か一人が遅れたから全員で罰受けるとか。

 

ヘドが出る。

 

だから僕は日本の時の高校のアメフト部が大嫌いだ。

 

必要以上のシュウダンコウドウを求められる。

 

個のタレントが求められるアメフトでそれを徹底する意味が最後まで分からなかった。

 

 

でも、それはクラスでも同じだ。

 

僕は日本の高校時代、クラスでは浮いている人間だった。

 

机の上に読みたい本のリストを付箋に書いて貼ってたり、

哲学者の名前とか思想とかをメモって貼ってた。

授業(特に公民)では言いたいことをずっと言ってた。

文化祭ではリーダー的なポジションにいる人にもクラスメイトにも徹底的にフィードバックしてた。

泣き出す男子もいた。

 

結果、僕はめちゃくちゃ嫌われていた(であろう)。

 

ある日、公民の授業で憲法の話をしていた時に、憲法の三大原則の中で最も大事なことは?という問いの生徒の答えをまとめた紙が配られた。その中に、平和主義と答えたクラスメイトがいた。彼はその理由として当時ホットだった平和安全法制の例を挙げて、それが脅かされているから大事だと言っていた。

 

しかし、僕はこう思った。この憲法が公布された時代にそんな法律も議論もないよな...?と。

思った数秒後にはそれが口に出ていた。

 

「この平和主義って答えたのだれ?」

 

僕にとってはただの質問だった。

 

 

そして、おそらく書いた本人であろうクラスメイトはこう答えた。

 

「そうやって人の意見を否定するの良くないと思うよ」

 

 

衝撃的だった。

 

意見に反論することは否定だったのか。

もっとも、僕は誰が書いたのかを聞いただけだ。

 

百歩譲って、アノニマス回答にwho?って問いはナンセンスだって言うなら話は別だ。

 

ただ、彼の考えは違った。

 

 

今でもそういう出来事は起きる。

 

反論したり、意見したらそれを短絡的に人格攻撃と捉えて過剰な自己防衛に走ったり、人格否定と捉えて感情的になったり。

 

僕は理解しようとすることを諦めているわけじゃない。

 

あまりにも理解できる人が少ないことを嘆いているだけだ。

 

世は英語教育で盛り上がっている。

 

英語教育よりももっと前に学ぶべき能力があるのではないだろうか。

 

 

日本語力が今、問われているのではないだろうか。

6年前と変わらない中学校

中学生と話す機会があった。

 

夏休み明けすぐの中学2年生。

 

フレッシュなエネルギーを感じた。

 

それとともに、僕は衝撃を覚えた。

 

6年前、僕が中学生だった時の周りの友達と

今日、会った中学生が同じ言葉を口にしていたからだ。

 

「塾の勉強が忙しいんで」

 

僕は何度、あの言葉に殴られただろう。

中学2年の時だった。

僕は何かやりたくてたまらなかった。

何個も何個も起業のアイデアを書き溜めては、

友人に見せて一緒にやろうと語った

でも、誰も彼も口にしたのがあの言葉だった。

 

そして、あの言葉は僕を孤独にした。

 

だからこそ、僕がビーラボ(b-lab)文京区青少年プラザに出会えた時の衝撃は今でも覚えている。

だから僕は今カタリバという団体に関わっているし、中高生の芽が踏まれるようなシーンは少なくとも目の前で見たくない。目の前では起こさせない。

 

そして、今日僕はその当時の僕を結果的に思い出した。

 

数年ぶりにあの言葉を聞いた。

 

6年経っても僕はあの言葉を発する側にはいない。

そういう意味ではそちら側の人々がどうしてそう言うのか分からない。

 

分かってるけど。

 

 

6年間。世界は大きく変わったであろう。

 

今は小学生のおままごとにAIとかドローンとかそういう用語が出てくる時代だ。

今はスマホ1つでモノが買えて電車にも乗れる時代だ。

YouTuberが仕事として認知されるようになった時代だ。

 

それなのにもまだ、

彼らは言う、

 

「塾の勉強が忙しいんで」

 

僕は本当に悔しい。

 

もちろん、世の中には変わるべきこととそうでないことがある。

 

果たして、6年前の中学生と今の中学生が全く同じ言葉を同じ状況で発する事は正常な事なのだろうか。

正しいと言えるのだろうか。

 

そして、「〇〇大学」という看板に耳を立てる。

 

今も6年前も図式は変わらない。

 

 

だから僕は変えたい。

 

 

それは決して彼らをどうにかしたいわけではない。

 

環境が変わった上での発言なら僕は尊重したい。

 

でもまだ、スペースはあるはずだ。

 

もう少し、頑張れるところはあるはずだ。

 

夏休みの思い出が夏期講習は誰が望んでいるのだろう。

 

彼らの思い出は夏期講習だけでいいのだろうか。

 

それは、僕だから持つ疑問なのかもしれない。

 

中学で保健室登校、高校で不登校からの中退。そして留学しギャップイヤー。

 

そうだ、僕はもう日本の線路の上を走っちゃいない

 

とっくにそんなの諦めてる

 

向こうだって乗せたくないだろう

 

でもそんな奴がいるから、社会は面白いんじゃないかな

 

そんな奴をバカやってんなーって言える環境が面白いんじゃないかな

 

僕は彼らに羨ましがられたいわけじゃない

 

ただ、彼らに伝えたい

 

今やってることに納得してるのか。

 

やらなきゃいけないことはあるかもしれない

 

でもやらなきゃいけないことが本当にやらなきゃいけないことなのか

 

もしかしたら思い込んでるだけかもしれない

 

そして、多様なロールモデルを見せよう。

 

それが10代、20代、30代にできることだと思う。

 

まだ凝り固まってる場合じゃない。

 

 

もっと自由でいいはずだ。

 

 

僕はそう信じていたい。

 

 

そしてここまで読んでくれた誰かにも、

そう信じてくれる人がいると信じてる。

 

 

今がスタートする時だと思う。

 

僕は目の前のことから少しずつ、一歩ずつ、確実に、でもたまにはジャンプして、

僕を育ててくれたこの国に、社会に、学校に、家族に、b-labに

 

見せていきたい。

立ち上げた団体で実現したいこと

最近学生団体を立ち上げた。

 

学生団体と言っても、自分が正式に学生なのかどうかは定かではないが。

 

その名も「夢の教室

 

www.facebook.com

 

この団体の名称は自分が通っていた学校の教育目標に由来する。

 

自分の通っていた東京学芸大学附属竹早小学校は「ゆめの学校」というのを教育目標かそれに似たものに掲げ、主体性を育む教育を実践していた。時間割を自分たちで組んでいたエピソードは鉄板の小学校ネタだ。他にも、「たけのこタイム」と呼ばれる、90分前後のサークルに類似した活動が月に1度ある。この時間では4年生以上の児童がやりたい活動を企画者となって廊下に掲示し、参加者を募る。そして学年関係なく、皆でそれに取り組む。

 

そんな「ゆめ」のような小学校経験が忘れられず、拗らせた結果、今回の団体立ち上げの経緯だ。

 

しかしそれだけではない。

 

この立ち上げの根底には学校教育へのメッセージが込められている。

 

政治家や教育の専門家は次世代の教育をどうするかで盛り上がっているが、では今まさにその教育を受けて育っている中高生はどうなるのであろうか。

そこに対してアプローチできるのがこの団体の強みだ。

 

僕たちはこの団体での活動を通して、「学び」というもの、ひいては「教育」というものを再定義したい。

「学び」とは本来、日常にありふれているものであるべきだ。本当に小さな気づきでも、それを気づきとして、学びとして変換すればそれは学びに他ならない。そのハードルは絶対に上がるべきではない。

しかし、世間では、知識に偏重した能力が評価される。そしてそれは模試で高い偏差値を取ることとほぼ同義であるように感じる。

 

しかし本当にそれでいいのだろうか。

高校は大学受験予備校でいいのだろうか。

それが「学び」なのか。

 

僕はそうは思わない。

 

学ぶことは「楽しいこと」ではないのだろうか。

社会を知り、自然の摂理を知り、それらを実践する。

本来の教育の在るべき形は今ここで見えているものなのだろうか。

 

この団体はそれにクエッションマークを投げる団体だ。

 

「今までにない学び」を届けるために、教科書を立体化する。

この立体化とは実際に3Dにするとかそういうことではもちろんない。

知識を「インプットするだけ」ではなく、

それを実践する場を作る。

僕はこれを勝手にPractical Studiesと呼んでいる。

 

そして、そこで得た学びを共有するためのコミュニティ形成も重要だ。

 

これらを実現した先に見えるのは、

「学校は教育の絶対解ではない」ということだ。

 

そのためにはまず、目の前にできることから一歩ずつ、トライアンドエラーを重ねながら自分の中に聳え立つエベレストに登っていきたい。

理想の大学って何?

大学に行く意味とは?

 

この問いに自分の言葉で多くを語れる大学生が日本にどれくれらいいるのだろうか。

 

これは決して批判ではない。

 

ただただ、自分がカナダで感じた学生像と日本の学生像に開きがあるように感じる。

 

本質的な大学という概念の解釈が違うような気がしないでもない。

 

カナダにももちろん「名門大学」と呼ばれるような大学は複数あるけど、

 

日本の「東大ピラミッド」ほど1つの大学に富と名声が集中しているわけではない。

 

東部ならトロント大、マギル大とか、西部ならUBC(ブリティッシュコロンビア大学)とかビクトリア大学なり、偏差値的な統一指標がないが故に各大学がそれぞれのフィールドで戦いやすいのかもしれない。

 

もっと言えば、「コンピュータサイエンスと言えばウォータールー大」みたいに専門分野によって強みを持っているのも特徴かもしれない。

だから専攻が変わった学生は結構な確率で大学ごと変える。

 

一方の日本では、基本的に4年間を同じ大学で過ごす。もちろん、学業に専念する学生もいるだろうが、遊んでる学生が多いのも事実ではないだろうか。

そしてそういう学生に限って遊んでることを言いたがる。

 

ここで話を冒頭の問いに戻す。

 

大学に行く意味とはきっと、高校で満足できなかった学びへの意欲を爆発できる場所なのではないだろうか。

僕は性格的な「多動」なので、1つの専攻だけをずーっとやることはきっと難しい。だからこそ流動性のあるデパートメントで学びたい。

もっと言えば、専攻が変わったら大学ごと変えるくらいのフッ軽でいたい。

 

じゃあカナダに帰れと言われるだろうが、これが難しい。

実際、カナダで学ぶことは日本で学ぶことより様々な意味で「利」はあるかもしれない。

ただ、留学生には諸々の制約も多い。

労働時間とか、経済活動とか。

インターンもやって組織運営などなども並行してやっていきたい僕にとっては不都合が多い。

日本で学ぶメリットは逆にいうと上記が自由にできることではないだろうか。

 

まだまだ考えごたえがある、進路選択。

 

失敗を極度に恐れては何もできないが、ある程度のお金が絡んでいる以上、責任ある選択をすることは当然。

そもそも、大学に行かせてもらえる環境があることに感謝。与えられることを決して当たり前だと思ってはいけない。

 

そう考えると悩みのループがまたひと周り大きくなった気がしてしまうのはなぜだろう。

 

 

先輩という言葉の罠

「先輩」という言葉は広く日本社会で「後輩」という言葉とセットで用いられることが多い。中でも、学校や会社などある程度閉ざされたコミュニティの中では多く使われる言葉だ。

 この言葉は使った瞬間にその2人の関係に主従的な意味合いを持たせてしまう。いつからそうなったのかは知らないが、先輩と呼ばれる人とそう呼んでいる人には上下関係がある。そして多くの場合、先輩は年長者だ。

 

 そして僕は、この言葉を上下関係のない新しい枠組みでの関係を作ろうとしている団体で使うことに拒否反応がある。

 高校生と大学生の対話を行う際に、大学生ボランティアを「先輩」と呼ぶこと、ボランティアコミュニティの中で、長く属しているボランティアのことを「先輩ボランティア」と呼ぶことには特に違和感がある。

 

 それは、日本社会の中において、「先輩」という言葉には文化的、伝統的な意味が加えられるからだ。先輩という言葉には、文化的に尊敬の対象であり、言葉でもそれを示すことが求められやすい。特に、初対面などの状況で、「先輩ボランティア」などという言葉を使うことは自ら相手との距離を離す行為ではないのだろうか。

 そして、上下関係のないコミュニティにおいて先輩という言葉を使うことは上下関係の発生に直結するからだ。

 

 ただ、日本人は日本人を「先輩」と呼ぶことをやめられない。それをやめられない人ほど、この「先輩文化」にどっぷり使っていた人なのではないだろうか。決して能力がなくとも、決して才能がなくとも、年齢といういきていれば1年に1回自動的に加算されるポイントが高くなるだけで、言わば尊敬される対象となることができてしまう。それはそのポイントが高くなるほど形式的に尊敬する人は増える。

 

 何気なく、「先輩」という言葉を使ってしまうが、この言葉には関係性を明確にしてしまい、双方の間の距離を広げ、円滑な組織作りの阻害となる可能性がある。

 

 先輩や後輩などという言葉の代わりに、下の名前を素敵に呼ぶ文化を輸入することはそこまで難しいことなのか...

 

 

日本人は一歩国に出ると助け合わない

一度大きな災害が発生すると、日本中が「絆」、「助け合い」などという言葉で溢れる。

 

 

今まで特に気にしていなかったのに、皆が「これで思い知らされた」などと言って「絆」「絆」と騒ぎ出す。

 

 

別にそれが悪いとは言わないし、むしろ非常事態に支え合えるのは素晴らしいことだと思う。

 

 

では、平時にはどうだろうか。

 

 

誰かが道で困っていれば誰かが助け、痴漢にあった女性がいれば時に殺してしまうほど必死に犯人と思われる人を捕まえる。

きっと、皆が思っていないだけで日本人は誰かが困っていれば助けるのではないだろうか。

無論、日本人に限った話ではないと思うが。

 

 

では、海外に出るとどうだろうか。

 

 

これが悲しいことに、多くの日本人は海外で他の日本人を見ても知らない顔をしてやり過ごす。

特に彼らが下手な現地語(主に英語)を話していると本当に知らない顔をしてしまう

多くの海外の大きな都市には「チャイナタウン」に代表されるように特定のアイデンティティーやエスニックが集まった地域が存在する。これは科学的な実験も行われており、共通項(主に人種)があると人間はどうも集まりたがる習性があるようだ。

しかし、ジャパンタウンというのはあまり聞かない。もちろん存在することもあるが、他に比べるとどうも少ないように感じる。

僕はそれが一種の日本人の特徴ではないかと思う。自らがマイノリティーに置かれた環境で集団を作り困難に対応することが苦手なのかと思う。

実際にアメリカを中心に中国系や韓国系の団体は組織ぐるみで政治的な活動を行う。それに少数の日本人が反論する。

 

 

きっと、他人に助けを請うことを恥じる文化が関連しているのだと思う。

 

 

もちろん、何でもかんでも人に聞いて、頼んでという姿勢が評価できるかと言われれば、それはそうでないと思うが、必要以上に自らを追い詰める必要はないと思う。適度に他者に依存することもこれからの社会では重要なのではないかと思う。特に、日本の名誉に関わる問題(海外での慰安婦像設置運動や南京大虐殺に関する運動など)に関してはその現地の日本人が結束して、間違っていることには声をあげるべきなのではないだろうか。少なくとも僕は在外邦人の一人としてそうであるべきという哲学を持っている。全員が全員そうあれというのは間違っているが、間違った認識を広めていいのだろうか。それに疑問があるならば、小さくともか弱くとも、声はあげてしかるべきなのではないだろうか。

 

 

実際に、海外にいる日本人をサポートしている日本人が多く存在するのも事実であり、彼らの活動を否定したり批判するような意図がないことをご理解いただきたい。

 

 

 

 

センター試験は必要か?

毎年1月になると、街中に「受験生応援!」の文字が溢れる。

 

マフラーにマスク姿の学生は下を向いて参考書とにらめっこしている。

 

すっかり日が暮れた夜の高校の校舎は、3年生の教室にだけ明かりが灯っている。

 

空気を除菌するための塩素がかすかに匂う予備校には志高い受験生が朝から晩まで鉛筆を握り、何かをつかもうと必死に努力をしている。

 

これは日本のある種の伝統的な風景ではないだろうか。

 

1970年代の共通一次試験から今日のセンター試験まで、日本の大多数の高校生と高校生だった人がこれを経験している。

近年ではAO試験や自己推薦などの推薦入学制度の普及によりその母数自体は減っているであろうが、それでもなお多くの受験生がこの壁を登っている。

 

そんな彼らは評価されるべきで、決して当たり前ではないと思う。

しかし、高校3年間で養われたもの、身につけたものをたった一回の試験で判定してしまうのは酷にもほどがあるのではないだろうか。今後、「大学共通テスト」などと呼ばれるセンター試験に代替される試験が実施されるが、何れにしても壁が特別低くなるわけでも、薄くなるわけでもない。

 

東アジアの大学入試 = 統一試験の利用

 

この共通テストのようなものを大学志願者に課しているのは東アジアの特徴的な教育システムなのではないだろうか。中国における「全国普通高等学校招生入学考試」や韓国における「大学修学能力試験」など同じような統一試験が実施されている。

 

しかし、僕はこれに異議を唱えたい。

 「グローバル化」と騒がれる昨今、多様化が求められ始めている。騒がれている以上にグローバル化は進んでおり、老人の誇る「東芝」や「SONY」は昔ほどの世界的な人気はない。大学に変革が求められるのも特別に不思議な話ではない。「2018年問題」に代表される大学の定員割れや留学生の増加、英語人材の需要など、今までのことを今まで通りにやっていてはいけない時代になりつつある。

 そんな中、今こそ高等教育で大きな実績を持つカナダの制度を参考にしてもいいのではないかと思う。これら北米地域の大きな特徴は「連邦制」である。この制度は日本で言われる「道州制」のベースとなる制度で、各州政府が教育に関する権限を持つ。また、多くの連邦制の国に国立大学が存在しないことも特徴である

 連邦制の国では各州により教育カリキュラムが異なるため、入学のプロセスにも若干違いが出てくる。逆に言うと、各州により教育制度が違うために統一試験を行うことができない(公平性などから)という事実がある。そのために多くの大学は学校の成績を元に合否を判定する。

 しかし、ここでも州や学校により教育内容や水準に違いが出てくるために一概に統一された基準で判定する事ができない。そのためにアメリカでは「SAT」と呼ばれる統一試験に似た制度が設けられている。これを一つの合否判定の要素として用いている。

 では、カナダの場合はどうであろうか。カナダでは大学が各州ごとに基準を設けられている。学校の成績をベースにエッセイや場合によってはインタビューで合否決定がされる。つまり、学生の3年間の努力が直接大学進学へ影響する。

 個性を尊重する文化が強いというのも事実としてはあるが、それにしても学生目線で制度設計がなされていると思う。もちろん、州により難易度に違いはあるが、それでも高校での努力が反映されるこの制度は評価に値するのではないだろうか。

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現代ビジネスオンライン「目前に迫る2018年問題 ついに文科省が「私大の闇」に斬り込む!?」伊藤 博敏 2016年5月26日 より抜粋


 

 もちろん、大学に言わせれば多くの志願者を短期間で合否判定をするには統一試験などの統一基準によって判断する方法の方が費用や期間などの面でメリットが多い。しかし、今後受験者数が減少し、私立大学を中心に淘汰される状況が想定される中でも、この統一試験方式を継続するメリットは大きいのだろうか。

 現実的な策として、従来の年末から年始に出願し3月前後までに最終人数が確定する方式を変更できるのではないだろうか。実際にカナダでは半年近くもの期間が出願期間として設けられている。この期間内であれば、自分のタイミングで出願し、早くて数週間で合否が判定される。このように、2学年までの成績や3学年1学期までの成績で判定するようにすれば不可能ではない。

 しかし、高校の段階では学期末まで生徒は自分の成績を知る由がない。カナダではオンライン上に全ての自分のクラスの成績にアクセスできるようになっている。公明正大であり、自分の立ち位置を自分で把握できる事ができる。このように生徒が自立して自らの将来設計を行えるようにする必要がある。

 

 以上のことを検討すると大きな問題として

・大学入試制度の抜本的な改革の必要性

・それに伴う高校の成績制度の変革

の2つが挙げられる。

 

 これらの二つを変えることは相当に大きな影響を及ぼすことであり、政治だけでなく、こうした問題に関する議論を国民のなかで醸成させる必要がある。

 

 

 

 

 ここまで読んでくださった方に、このたわ言へご指摘いただけたら幸いです。