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読んだ本|なぜデータ主義は失敗するのか?

『なぜデータ主義は失敗するのか?』は、北欧の戦略コンサルティングファームの創業パートナーによって書かれた本。

 近年、小島武仁氏や中室牧子氏のような実社会のデータを用いる経済学者らによって、経済学的手法を用いた政策の立案や企業の制度改革などが進められている。いわゆる「エビデンス・ベースド(Evidence Based)」の動きは、政治や民間企業に留まらず様々な領域(*1)に広がっているが、本書はそうしたデータ主義に異を唱える一冊と言える。

 筆者はデータに基づいた分析やインサイトの発見では、本質的な人間の原理を理解できず、間違っているからこそ、人文科学的思考が重要性だと主張する。データ主義の欠点とは何で、なぜ失敗すると言えるのか。そして、人文科学的思考とは何だろうか。

 

*1 相次ぐ大学データサイエンス系学部/学科の新設や、スポーツ領域でのデータチームの立ち上げなど。

本の情報

タイトル:なぜデータ主義は失敗するのか?

著者:クリスチャン・マスビェア/ミゲル・B・ラスムセン

出版社:早川書房

Amazonリンク:https://amzn.to/45Hw2qH

関連情報

 著者のマスビェアとラスムセンは、デンマーク発のコンサルティング会社「ReDアソシエイツ」の創業パートナーを務める(執筆当時)。

 ReDアソシエイツは、人文社会科学の知見を基にした戦略コンサルティングを得意とするファーム。ファームのメンバーにはMBA(経営管理学修士)よりも高い知的水準が求められ、何千冊もの本を読み、ハイデガーなどについても理解できるレベルでの知性が要求されるという(*2)。

 

*2 こちらを参照。

データ主義の欠点

 データ主義が持つ欠点として「人間」に対する捉え方のズレが指摘されている。各種数値や統計情報などのデータでは人間のある特性を見逃していると主張する。

 企業が不確実性の大きい社会の中で何かの決断を迫られている時、ついつい幾つかの条件を暗黙のうちに前提視してしまう。例えば、「人間は合理的な存在で、常に十分に情報を持っている」や「数字こそが真実である」といったものだ。筆者はこれらの前提に立った思考法を「デフォルト思考的問題解決法」と呼んでいる。目的合理主義の考え方に基づき、経営課題は客観的かつ科学的な分析によって解決できるという考え方が中核にある。

 多くの企業で、大規模な量的モデルに基づいた定量分析が行われている。この量的な分析によって企業や事業の成長予測が数字として弾き出されたり、市場の今後の動向を掴もうとする。こトロント大学経営大学院のロジャー・マーティンは次のように量的分析への過度な信頼を批判する。「量的アプローチの最大の弱点は、事象を現実世界の状況から抜き出したり、モデルに含まれない変数の影響を無視したりすることによって、人間の行動をコンテクストから切り離してしまうことだ(p. 73)。」

 ブランドのファンの数は数字で表すことができるが、量的な分析のフレームではそれらファンが実際にどのような体験を経た結果ファンであるのか、あるいはどのような体験に価値を感じているのかといった「人間の体験」を見えなくしてしまっている。

 一方、この前提が常に存在しているわけではなく、むしろこれらの前提を元にしていては正しい判断がおおよそできそうにないことも感覚的には理解できると思う。実際に筆者も、企業がこの思考法を常に有効なモデルだと信じておらず、近年ではブレインストーミングやワークショップなど、感覚的な意見やアイデアが判断に介在する余地が生まれつつあることを指摘している。

データ主義が失敗する理由

 データ主義の欠点は前節で紹介したが、この時点でデータ主義がなぜ失敗するのか?は明らかなように思われる。すなわち、過度な量的分析や計量的な判断基準のみによって行われる意思決定には、その数値の裏にある人間の質的な体験や行動があり、数値はそれらを反映していないという問題がある。この質的な情報を取り逃がすことによって、企業はコンサルティング会社に莫大な費用を払い、経営の立て直しや事業戦略の転換、事業推進スキームの見直しなどを行うことになる。

 これだけを読むと、「うちはそんなことはない」と容易に反論できるように思われるが、質的な情報を正確に捉えることは、量的な分析を精密に行うのと同等か、それ以上に難しい。なぜなら、数値として表れたものの裏にある人間の体験を客観的な言葉で記述し、価値ある情報として示す必要があるからだ。多くの場合、これらは「あなたの感想ですよね?」の域を出ることはないのではないだろうか。

 だからこそ、筆者は人間の体験を探求する学問体系として古代から脈々と受け継がれてきた、「人文科学」の必要性を説くのだ。

人文科学的思考とは何か

 筆者は人文科学を、市井の人々すべてがもつような体験を独自の方法論と理論体系で認識し記述する学問領域と考える。例えば、何度も挙げている「人間の体験」を人文科学的に定義する場合、プラトンやハイデガーによる体験を関する理論体系を参照しながら、現象学を用いた体験の記述が可能だ。量的な分析、あるいはビジネス的な思考法に基づけば、「現在」揃っているデータを用いて記述するだろうが、人文科学的思考は古代から蓄積された「人間のナレッジデータベース」を参照して記述する。抽象度のかなり高い理論とエスノグラフィに代表される人文科学的な探求方法が接続され、人文「科学」的な結論の導出が可能となる。

 これこそが人間の体験を記述することであり、データ主義が取りこぼしている重要なインサイトである。人文科学を単なる学者の「お気持ち表明」や「コメンテーターの学者版」のように考える人がいるなら、高等教育機関で人文科学を学ぶことを推奨する(「お気持ち表明学者」や「コメンテーター社会学者」がいないとは言っていない)。

まとめ

 ここでは本に書かれた内容のエッセンスを自分なりの理解というフィルターを通してまとめたが、大きく外したことは言っていないと思う。本書で最も重要な点は、「データ主義は問題があるから人文科学的思考で全て代替しよう」ということだ。原題は”Using the Human Sciences to Solve Your Toughest Business Problems”であり、邦題ほど極端かつ扇動的なタイトルではない(早川書房に限らず出版社の邦題のセンスは酷い)。データ主義の利点はあり、KPIの設定はまさにデータ主義が成せる技であろうし、難易度の低い問題の多くは量的な分析で解決できるのではないだろうか。あくまでこの本の論点は「Toughest Problems」なのだ。

 若干の釈明をしたが、その上で近年のデータ至上主義には問題がある。本書でも主張されているように、人間は数値を作るのではなく、個々人がそれぞれの世界で常にオリジナルな体験をしている。量的データはこれらのコンテクストを切り離し、断片的な状態を見えているように思わせているに過ぎない側面がある。例えば、個々の犯罪の質的な情報なしに犯罪率だけを見て犯罪件数を下げることはできないように。

 しかし、「ビックデータ」や「データサイエンス」というファンシーな横文字に踊らされ、どんどんどデータ主義の傾向は日本全体の傾向としてあるように思う。そうした中にいるからこそ、本書が読まれる価値がある。日本人の統計リテラシーが高くなれば、池◯彰のトンデモグラフを黙って見過ごすこともなくなるだろうし、新聞社の調査が何を意味しているかも今以上に理解されるだろう。これは必要だと思う反面、今以上に私たちは他者への想像力を欠くことにならないだろうか。

 あなたという人間がどんな人であるのかを偏差値やIQ、体重や信用スコアは教えてくれない。そのことに気づかせてくれる一冊ないだろうか。