日本人は一歩国に出ると助け合わない
一度大きな災害が発生すると、日本中が「絆」、「助け合い」などという言葉で溢れる。
今まで特に気にしていなかったのに、皆が「これで思い知らされた」などと言って「絆」「絆」と騒ぎ出す。
別にそれが悪いとは言わないし、むしろ非常事態に支え合えるのは素晴らしいことだと思う。
では、平時にはどうだろうか。
誰かが道で困っていれば誰かが助け、痴漢にあった女性がいれば時に殺してしまうほど必死に犯人と思われる人を捕まえる。
きっと、皆が思っていないだけで日本人は誰かが困っていれば助けるのではないだろうか。
無論、日本人に限った話ではないと思うが。
では、海外に出るとどうだろうか。
これが悲しいことに、多くの日本人は海外で他の日本人を見ても知らない顔をしてやり過ごす。
特に彼らが下手な現地語(主に英語)を話していると本当に知らない顔をしてしまう
多くの海外の大きな都市には「チャイナタウン」に代表されるように特定のアイデンティティーやエスニックが集まった地域が存在する。これは科学的な実験も行われており、共通項(主に人種)があると人間はどうも集まりたがる習性があるようだ。
しかし、ジャパンタウンというのはあまり聞かない。もちろん存在することもあるが、他に比べるとどうも少ないように感じる。
僕はそれが一種の日本人の特徴ではないかと思う。自らがマイノリティーに置かれた環境で集団を作り困難に対応することが苦手なのかと思う。
実際にアメリカを中心に中国系や韓国系の団体は組織ぐるみで政治的な活動を行う。それに少数の日本人が反論する。
きっと、他人に助けを請うことを恥じる文化が関連しているのだと思う。
もちろん、何でもかんでも人に聞いて、頼んでという姿勢が評価できるかと言われれば、それはそうでないと思うが、必要以上に自らを追い詰める必要はないと思う。適度に他者に依存することもこれからの社会では重要なのではないかと思う。特に、日本の名誉に関わる問題(海外での慰安婦像設置運動や南京大虐殺に関する運動など)に関してはその現地の日本人が結束して、間違っていることには声をあげるべきなのではないだろうか。少なくとも僕は在外邦人の一人としてそうであるべきという哲学を持っている。全員が全員そうあれというのは間違っているが、間違った認識を広めていいのだろうか。それに疑問があるならば、小さくともか弱くとも、声はあげてしかるべきなのではないだろうか。
実際に、海外にいる日本人をサポートしている日本人が多く存在するのも事実であり、彼らの活動を否定したり批判するような意図がないことをご理解いただきたい。