いつかの思考のための箱

Choose what you love and stick with it.

プロフェッショナルとは何か

最近、感情を意図的に出すようになった。

 

前から思っていることをあえて口にするようにした。

 

そうすると周りの受け取り方も変わって、「なんだ、そういうとこもあるんじゃん」みたいな反応をされる。

 

それこそが僕の違和感だ。

 

僕は、クライアント側の視点を絶対に忘れたくないし、

それを忘れてしまいそうになることが怖い。

 

もちろん、提供する側の人材がどんなモチベーションで、熱意を持ってくるかは重要なポイントであるが、そこに重きをかけすぎてしまうことは如何なのだろうか。

 

ボランティアという性質を持っているのに、どうして自ら協力しよう、関わろうと思えるマインドが作りきれていないのだろうか。

 

どうしてボランティア企画の運営側がすでに登録されているボランティアプールに対して積極的な働きかけ(ex. 想いを語る、直接会う、電話するetc)をしなければいけないのだろうか。

 

現状、そうしないとボランティアプールから人が集まってこないという問題はある。

 

これを看過して本当に良いのだろうか。

 

 

僕はプロフェッショナルでありたい。

 

与えられた仕事、持っている仕事には責任感を持ってやりたい。

 

それは有給無給関係ない。

 

その機会を得た以上、それを全うすることは責務であると思う。

 

僕の違和感の正体は、いわゆる「学生気分」が蔓延しすぎているからだと思う。

 

どうして文化祭のノリに近いものがあるのだろうか。

 

僕らはもっと大きなミッション、ビジョンを持っているはずだ。

 

それが前提なはずがそうでない現状がすごく窮屈だ。

 

そうして僕は孤独になる。

 

決して可哀想だなんて思われる覚えはない。

 

そもそも、可哀想だなんて言われる筋合いもない。

 

僕は孤独になってしまう生き方であって、それに屈して同調するつもりもない。

 

僕はこの違和感を忘れない。

 

きっと、これを忘れてしまったらこの僕はどこかへいなくなってしまうと思う。

 

僕はこの違和感を抱けるから僕なのであってそれを殺してしまえばそれは僕ではない。

 

違和感こそが僕だからだ。

 

だからこそ孤立する。

 

まさにリアルな「不協和音」の世界だ。

 

僕はYesと言わない。首を縦に振らない。周りの誰もが頷いたとしても。

 

ただ、発信する場は考える余地がある。

 

だから僕は、Facebook、ブログ、note、自分のテリトリーで発信する。

 

聞きたい人は聞けばいいし、耳を塞ぎたい人は塞げばいい。

 

 

それでも、多様な人々をまとめ上げる能力も必要だ。

 

その努力は諦めない。